最も古い記憶
4歳の私の一番長い日



 これを読んでいる皆さんの覚えている中で、最も古い記憶とはいつごろのことでしょうか?断片的な記憶であれば、人によっては生まれてすぐのことを覚えている人もいるでしょう。
 では、ある程度長い時間の出来事に関する記憶はどうでしょう?私が覚えている一番古い出来事は‥‥。


 私が4歳になったばかりの頃、父親の仕事の都合で1年半ほどドイツで暮らすことになりました。

 当時の私は父の仕事の内容さえ知らず、それどころかドイツへは遊びに行くものと信じて疑いませんでした。
 さらに言えば、私にとって『外国』とはアメリカとイギリスのことであり、ドイツがイギリスの近くと聞き、『アメリカの一地方でイギリスに近いところにある』という解釈をしていました。
 また、私にとっての言語も日本語と英語の2種類しか存在しないもので、ドイツ語とは英語の中の方言のようなものだと思っていました。


 ドイツに着くまでのことはあまり覚えていません。何故ならその後の記憶があまりにも印象的過ぎたから。
 空港からバスでミュンヘンの駅に着く頃、私の興奮は最高潮に達していました。テレビの中でしか見たことがない、髪と目の色が黒くない人たち。自分と家族以外のみんなが金色や茶色の髪の毛で、聞いたことのない言葉を話しています。
 幼児にとって両親さえそばにいれば怖いものなど何もありません。近くに座ったおじさん(当然ドイツ人)に日本語で疑問をぶつけます。「なんで髪の毛茶色いの?」日本語が分からない相手が答えられようはずがありません。分かっても答えられないでしょう。

 バスの中からの風景も私の興奮を後押しします。このときは冬。ドイツでは道が隠れるほど雪が積もっていました。日本の故郷では雪が積もるなど年に数回。そのときのドイツのように道までが完全に真っ白になることなど数年に1回の大イベントです。

 駅に着き、道の所々に雪かきで集めた雪が積み上げられています。雪の小山があるたびに立ち止まって雪で遊ぼうとする私、それを1回1回引き止める両親。いたちごっこのようにして駅舎まで歩いていきました。

 乗るべき電車まではまだ時間があり、両親は貸しロッカーに荷物を預けることにしました。早速ロッカーの受付に行き、その旨を伝えようと相手に話しかけましたが、いかんせん不慣れなドイツ語ではなかなか意思が伝わりません。両親が必死で話をしている中、待っている私は面白くありません。
 両親が話していることよりも先刻の雪のことが気になって仕方がありません。

「お母さん、さっきの雪のところでライダーキックしてきていい?」(多分、当時流行っていたのでしょう。)
「うんうん。」(受付のドイツ語を聞き取るのに必死で聞いていない。)

 母親の許可が出た(?)ので駅舎を出て雪のあった場所に戻ります。そこでライダーキックをしたり、雪だるまを作ったりと雪遊びを満喫していました。雪遊びに飽きた頃、両親がまだそこに来ないことに気がつきました。
 ここで遊ぶということは伝えてから来た(自分ではそのつもり)ので荷物を預けたらここへ来るだろうと考えていました。しかし、遊び飽きるほどの時間がたっても両親は来ません。まだ荷物を預けるのに手間取っているのかと思い、ロッカーの受付に戻ることにしました。
 さっき両親がいたところに戻ってみると、両親がいません。両親と話していた受付の人がいたので(日本語で)たずねてみます。

「お父さんとお母さんはどこ?」
「‥‥‥‥‥!」


 何を言っているのかは分かりませんが、身振りで私が雪で遊んでいたあたり行ったと言っているようです。きっと顔を見て『さっきの日本人の子供だ』ということは分かったのでしょう。
 走って雪のあったところに行きましたが、両親はいません。また受付に戻りましたが、やはり両親はいません。さっきの人に話しかけても首を振るばかり。受付と外とを数往復してから自分の置かれている状況を理解し始めました。


 迷子になってしまった。


 考えてみると大変な状況です。ただ両親とはぐれただけなら、周囲の人に助けを求めれば何とでもなります。しかしここはドイツ。私の言葉を理解できる人は誰もおらず、私は誰の言葉も理解できないのです。
 涙はまだ出ませんでした。しかし気持ちは焦り、広い駅の中で両親の姿を探しまわりました。

 どこに行っても両親が見つからず、べそをかき始めた頃、若い男性に話しかけられました。

「‥‥‥‥‥?」
「お父さんとお母さんがいなくなったの。」
「‥‥‥‥‥?」
「お父さんどこ?」


 会話は成立していませんでしたが、男性の方は私が迷子になっていることを理解したのでしょう。私を抱き上げてどこかへ連れて行きました。
 迷子センターのように遊具や他の子供がいるというところではありませんでした。おそらく駅の事務室のようなところだったのでしょう。男性は駅の職員ではないらしく、私をそこにいた別の女性に渡すと部屋を出て行ってしまいました。
 また先程と同じ成立しない会話が始まります。ドイツの駅で、日本語しか話せない幼児が迷子になっているのです。子供から得られる情報など皆無に等しいことでしょう。その女性にとっては、私が泣いていなかったことだけがが唯一の救いだったと思います。

 女性は私と会話することは諦め、かわりにお菓子をすすめてきました。多分おとなしくさせて、両親の方を呼び出そうとでも考えたのでしょう。しかしこれが私にとっては間違いだったのです。
 お菓子を目の前に出されたとき、母親のある言葉が思い出されました。

「知らない人に『お菓子をあげる』って言われても絶対食べちゃ駄目だからね。もしかしたら毒が入ってるかもしれないからね。」(この時期にグリコ森永事件があったからと思われる。)
「お菓子もらえるからって知らない人に着いて行かないように。誘拐されるかもしれないよ。」

 この言葉と今の状況から幼児が導き出した解答は






 自分は誘拐されてここに連れて来られ、今から毒入りのお菓子を食べさせられて殺される。


 会話こそ成立しないものの、それまで大人しくしていた外国人の迷子がお菓子をあげようとした途端に突然、泣き出して外へ逃げようとしたのです。さぞかし驚いたことでしょう。
 何とかして外へ出ようとする私を見て、女性は落ち着かせるには外へ出すほかないと考えたのでしょう。私を抱き上げてドアを開け、部屋の外(駅の中)へ連れ出してくれました。
 それでも女性から逃げようと抵抗を続ける私。しかし、少し歩いたところで私の目に母親の姿が映りました。

「お母さん!」

 女性も私の目と伸ばした手の先に、私と同じ目と髪の色をした人を見て分かったのでしょう。私を下ろし、自分もそちらへ歩き出しました。


 母親を見つけてからは詳しく覚えていません。母親がその女性に頭を下げていたことや、意外にも両親には怒られなかったなど、断片的な記憶はあるものの、そのあと電車に乗ったのかバスに乗ったのか、直接住む家に行ったのかそれともホテルで一泊したのか。記憶がはっきりしているのはドイツで暮らし始めてからだけです。
 このときのことは両親にとってもかなり印象に残っているらしく、20年経った今でも折に触れて我が家で出てくる話題の一つです。


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