桜の木の下
花が咲くことを眺める




 四月上旬、毎年この時期になるといたるところで桜が咲き乱れる。ある日を境に一斉に花が開き10日間ほどの間、普段は目立たない桜の木々が、このときとばかりに自己主張をする。自分の住む街にこれほどの桜があったのかと、驚かされる10日間でもある。


 そしてこの間、桜のある公園などでは連日花見が行われる。大人が、子供が、老人がこの桜の下で一つの時を過ごす。自然を見ながら酒を呑むという日本固有の風習の中で、現代まで続けられている唯一のものといっていいだろう。月を見て、雪を見て、虫の声を聞いて自然の中に自らの心を浸すということが、ほとんどなくなった今も花見だけは残っている。

 外国から帰ってきた日本人が『日本』を強く意識するのは桜か富士山であるし、入学式や入社式といえば必ず桜の舞う中の情景が連想される。そして、歌謡界でも毎年この時期、必ず『さくら』という言葉の入った曲が発表される。それほどまでに桜は日本人の心に深く染み込んでいる。


 綺麗な景色よりも、食べ物に目が行くような人を「花より団子」と表現する。しかしこれも、目は『団子』の方を向いていても『花』があるから団子を食べるのであって、何もないところでも団子を食べるというわけではない。
 花見の時も桜を見るのは最初だけである。少し時間がたてば、周囲の人との会話や酒、食べ物に注意が向く。しかし、頭上にある桜がなくてもいいというわけではない。桜があるからこそ集まるのであり、桜があるからこそ会話に『花』が咲くのである。



 私が思うに、人は桜の花という『もの』を見ているのではなく、桜が咲くという『こと』を感じているのではないだろうか。今までつぼみの状態であった桜が咲くという変化。先程まで開いていた花が散るという変化。花見というのはその変化する『こと』を感じ取る風習なのだと思う。そしてその中に人という『もの』も存在する。


春は夜桜、夏は星、秋は満月、冬は雪、それだけで酒は充分美味い


 少し前の漫画(週間少年ジャンプ・るろうに剣心)の一説であるが、昔は季節の変化ということを感じながら生きるのが当たり前であった。花が咲いて気温が上がり、長い雨のあと空が高くなり、木々が色づきやがて雪が降る。そのときそのときの変化した『こと』が生活の一部だったのである。
 自然が減り、空が狭くなった今では気温の変化以外で季節を感じることは難しい。だからこそ変化を感じる感覚と、それを楽しむ風習は出来る限り残していきたいものである。




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